言葉は伝達するのではなくて表面をなぞるだけなのかもしれない/それでもたまに貫かれることがある、

 

台湾留学時代のときの友人が来ていた。私の友人たちは、皆私のことをよく尋ねて来てくれて、なんなら泊まっていってくれる。

今回の彼女も三泊ほどしていった。

私の友人たちは、みんな私の住んでいる街のことをよくわかる人々で、到着して、自分がいつもいる街のリビングのようなゲストハウスで一緒に食事をし、お酒を飲んだりした後、私の、人々の住んでいる世界から少しだけ遠い家で眠ると、次の日にはまるでこの街の住民のようになる。

今まで2回ほど友人がたずねてきてくれたが、二人とも昼近くまで眠って、起きてから朝ごはんを一緒に食べて、私が一緒にいるときは一緒に遊んで、一人でいたいときは一人でぶらつく。そして海を見ながら散歩したり、本屋によって本を買ったり、山に登ったり、お好み焼きを食べたりして、国に帰る前の休息をこの街でしっかりとって、国へ帰っていく。彼女も最終日はお好み焼きを食べて、お土産を買って、私の家で音楽を聴きながら二時間ほど昼寝をして空港へ向かった。

この街は休息のための街なのだと、私も今休息の途中であると彼らを見ると思わされる。

今回の彼女はマレーシア出身なので、中国語・英語・そして少しの日本語を交えながら話した、言葉を混ぜる行為は日本では白い目で見られるが、マレーシアやシンガポール、香港など以前英国や列強に統治されていた経験のある国では当たり前で、マレーシアでは中国語、英語、マレー語を一文の中で全て混ぜて会話するのが当たり前で、逆に言語一つだけで会話するのがしんどい時があるくらいなのだそうだ。それもそのはずで、言葉の中には絶対に翻訳できない、(当たり前だけど)その言語の中でしか捉えられないニュアンスというものがあって、それを別の言語に無理やり置き換える翻訳という暴力を使うのがいやな時が多々あるからだ。彼女に言わせるとマレー語は英語より詩的で、英語はたまにずさんなところがあるらしい。中国語は彼女の母語だが家の中で飲み使う言葉なので、まだ掴みきれていないらしい。彼女の中では英語が一番馴染みのある言葉なのだそうだ。

 

そういう風に見ていると、文化はどんな形で流入したにせよ、いつかは人々の自然なバックグラウンドになっていくのだと思う。そして違うことが当たり前になっていく。ひとは適応していく人間だから。

 

友人から教えてもらったマレーシアのロックの父、M.NasirのRaikan Cintaを聴きながらぼんやりとそう思っています。

 

 

夜のゆくえ

フランスの友人が街を出ることになった。なんてことはない、ただの自然の動きだ。日本語が話せない自分にフラストレーションが溜まったのだという。

 

出る前にスケートボードで遊ぶ約束をしていたので、夜にゲストハウスで待ち合わせをして、そのあと飲みに行った。

自分は彼と一対一で話すときに昔は緊張していたが、今は彼が自分の拙い英語をきちんと聴いてくれて、そしてきちんとそれに対して答えを返してくれる人間だとわかってからは、臆せず話せるようになった。今までの欧州の人々は皆あまり話せないと見下してくる人々が多かったから。

彼は人の心をその眼でまっすぐに見透してくる人物でもある。考えはシンプルで、思ったことを行動に移せ、その時にお金のことなんかは関係ないでしょう?お金のことでゴタゴタ考えるのはつまらないよ、と言ってくれた。

自分は彼と話す時に純粋な、それでいてとてもパワーのある答えがドスンと心の中に落ちてくるのをありがたく思っている。

「そして、でもやっぱり君は家族から独立するべきで、人々は家庭から外の世界を持つべきなんだ。そしてその次の場所や世界は、決める前にここでコネクションを作ったり、どこへ行くべきで自分が動きやすいところはどこかを考えた方がいい。作品を売ったりすることへきちんとチャレンジして行くことを考えた方がきっと君のためになる。シンプルに考えるんだ、シンプルに考えることが決め手を作るから。」

「旅の中で全く関係のない人々に出会って、こんなにもたくさん経験をした僕のようなケースは本当に稀だと思う・・・この街は本当に稀有な街だよ。そして僕はたくさんのことを得たよ、このひと月too muchだった。だから一人でまた旅に出るよ。そんな時間が僕には重要なんだ。」

 

彼は一人日本の南方へ旅立ち、そして母国へと帰るのだろう。

 

彼にはいつかまたどこかで会える気がしている。多分、街の景色の中にも彼はいるだろう。何故ならば彼は、街のかけらや我々、つまり彼と関わった人間たちのかけらを持って行くと同時に、街に彼のかけらを置いて行くからだ。そして街の一部になった彼と共に、我々は明日も、変わらぬ毎日を生きるのだろう。人生のただその時だけを重なり合うことの、なんと素晴らしく、希少なことなのだろうか。一ヶ月しかなくても、生涯の友人はできるもので、たくさんの影響を与え合うことができるのだと、彼と彼の周りから教えられた。

 

A bientôt , 君の旅の幸多からんことを。またいつか、どこかで。

maybe cause we’ll  meet again somewhere,oneday. Thank you gave me  many feelings.

歌会に参加した

 

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学内に歌会の開催のチラシが出ていた。

自分は元来、詩や俳句、短歌が好きで、中高の国語の授業の時なんかも授業の内容はおざなりに、教科書に少ししかページを割かれていない漢詩や短歌をなんども読んだりしていた。

大学に入ってしばらく経つと、周りの友人が詩を嗜んでいたり、詩に関するイベントをしたり、いい詩人の本をオススメされたりしているうちに自分でも主にtwitterで短歌や詩を詠んだりしている人々を観測しだした。

発表に関しては、小学校の時の地域の新聞の俳句欄への投稿(そういう宿題だった)以外自身が発表するみたいなことは一切なかったし、何なら歌会が一体何をさすのかすらも知らなかった。みんなで歌を読み合うのかなとかそんな感じ。

 

一週間ほどでうたを作って、メールで二首送った。メールアドレスの横に自動的に表示される名前を見るとメーリングリストに登録されていた後輩だった。(自大学ではいまだに連絡にメーリングリストを使用している)。一体どういう風になるのか明日が楽しみで、後輩にその日のうちにどんな風にするのか聞きに行った。初めてだった自分に勤めて丁寧に教えてくれたので、あまり心配せずその日は眠りについた。

ちなみに二首は一番下に書きます。

 

歌会は想像していたよりももっと短歌を鋭くするというか、ブラッシュアップしていく作業をみんなで行っていく、みんなで短歌をどう読み解くかみたいなことをしていて、非常に面白かった。みんなでこういうことをする一番いいメリットは自分で気づかないところをもっと感度の鋭い人間が見つけたりするところだ。言葉の選び方の丁寧さに感心したり、短歌の内容に共感できるところが多かったりで学びが多かった。

自分の書いた文章が人のくちから音となって出てくるのは何とも言えずいい気持ちがした。声が入ると、文章は驚くほど様々な様相を見せる。

ビギナーズラックなのかどうなのか知らないが、後輩(短歌の会?みたいなものに所属しているらしい)に褒めてもらえてとても嬉しかった。何にせよ自分は褒められると伸びるタイプでどんどんやってしまうので、短歌や詩はこれからも調子に乗って続けていこうかなと思う。今日はその詩の後輩が去年出した詩集と、文化的に焼け野原だと思っていた自分の地元が、短歌や詩に関しては地方だとトップレベルだということを後輩に教えてもらい、さらにその本も貸してもらったので、書類が終わったら読もうと思う。書類からの現実逃避のブログ記事。

 

 

 

冷やし中華を冷やし麺というところに感じるある種のいとおしさ

 

フェス会場の空を舞う鳶(トビ) お前も聞いているか俺たちのいのちを

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フェス行った



音楽を野外で酒飲みまくりながら聞くの本当に良くて、踊りまくったりしていた、芸術は宗教とともに発展してきたせいで、ともすれば一気に宗教になってしまうと思う。(ex.boredoms)


台北のクラブでも思ったけど、たくさんの人間が同じ音楽を聴いて揺れたりするのを見ると、人間って基本は複数形なんだなと思う。


君の名前で僕を呼んでの感想

吹き替え版を鑑賞。字幕版も見たかったが終電の関係で諦めた・・・。

端的にいうとすごい良かったです。本当に・・・期待以上。

 

 

あらすじは、ティモシー・シャラメ演じるエリオは音楽が趣味な17歳。父親は大学教授で、毎年夏になると学生を住み込みで雇い、研究を手伝わせる。今年やってきたのがアーミー・ハマー演じるオリヴァー。エリオは最初はオリヴァーの偉そうな雰囲気(アメリカ人はどこでも堂々としてるからこういう印象を与えがち)に反感を抱くのだけれど、徐々に友情を超えた感情を抱き始める。2人とも男だけが好きなわけではなく、ガールフレンドもいる。2人は意識し合うがために、様々なすれ違いを起こしつつどこかギクシャクしていながらも、2人の時間を過ごし、ついに

 

 

 

 

この映画は3月ごろから注目していたもので、テーマ曲のスフィアン・スティーブンのmistery of loveを聞いたのがきっかけです。坂本龍一sportfyのラジオから飛んだのを覚えている。穏やかな曲調に心惹かれて、映画の公式サイトに飛んでそして絶対に見ようと決めていた。坂本龍一もこの映画の音楽を作っていて、それがまたエリオのドギマギした感情をうまく表現している音で、さすが世界の坂本と思った。この映画は音楽演出がうまい。映像の美しさもさることながら、音楽の挿入のタイミングと相乗効果で素晴らしいことになっている。先ほども書いたけれど、エリオの感情が音楽になって画面に響き渡っているよう。一見の価値ありと思う。

 

まず、はっとしたのはイタリアの風景の美しさだった。夏のイタリアの爽やかな、しかし少し湿気のある暑さ。ヨーロッパの夏は日本よりもとても過ごしやすく、皆外に出て陽に当たったり水浴びをして過ごす気持ちの良い季節だ。去年に訪れたヴェニスの、あの暑さを思い出した。

イタリアの田舎の水の美しさと、広々とした自然を自転車で走り回る気持ちよさ・・・。

 

そしてとにかく主演のティモシー・シャラメの美青年さよ!

それこそ、80年代の少女漫画の美少年のような。第二のビョルン・アンドレセンと言っても過言ではないように思う容姿。

17歳の危うい美しさをその美貌と演技力で表現しきっている。睫毛の揺れ方すらも意識しているのか?と思ってしまうほどに繊細で、感情豊かな演技。もちろんアーミー・ハマーのアメリカ人ハンサムの役柄も負けてはいない。ほんっとうに彼って80sのハンサムな感じがする。

 

作中、よく卵やアプリコットを食べたり飲んだりするシーンが出てきて、(というか大体お外で美味しそうなものを食べている)そこでのものの食べ方なんかも2人の性格や育ちを表現しているなぁと思う。あと、美少年と桃って古来からある組み合わせだけど、やっぱりあの形としたたる汁が原因だよね。というか全編夏のイタリアなのでほぼほぼ半裸とかで、ハンサムの輝く溌剌とした肢体に滴る水しぶき、そして降り注ぐ太陽の光・・・という。そのほかにも鼻血をだす美少年や嘔吐する美少年などなど、いやあ大変ごちそうになりました。

率直にいうと、王道を詰め込んだ感じ、花の84年組たちの少女漫画はこういうことを表現したかったのではないかと思う。

ただ、これをBLと表現したくはないなと思う。これは人を死ぬほど好きになるとはどういうことか、そしてそれを喪失するときの辛さや苦しさや痛みを、心を鈍麻させることなく受け止めていこうという希望のある恋の話なんだと思う。そこに性別の分け隔てなんて、一体どれほどの意味がある話だろうか?

映画は、恐れを知らない美しい少年の率直な輝きと、それを汚してはいけないと思う大人の逃げをまっすぐに映す。基本的に恋を自覚してからのエリオはまっすぐにオリヴァーに向かい合うのだけど、オリヴァーはそのまっすぐさに少し尻込みしてしまって、彼を汚す自分に罪の意識を持っていることがアーミー・ハマーの演技の端々に感じ取れた。二人の初夜の後、朝焼けに光るエリオを見たときのオリヴァーの顔は、エリオに拒絶されることと、エリオのような美しい少年を傷つけてしまった(であろう)自分の罪深さに押しつぶされかけていた表情だったように思う。であるから、セックスする前に何回も何回も、オリヴァーはエリオに確認をとる。本当にいいのか?と。大人であるオリヴァーの方が、不安で仕方がないのだ。別れのシーンなんて、完璧に大人のずるいところの結晶だった。最近自分も似たような思いを抱いたことがあったから、オリヴァーの気持ちがとても良くわかるし、昔の自分を思い出してエリオの感情に共感してしまい、劇場で泣いてしまうことが多々あった。

オリヴァーとエリオの初夜のシーンの前に、エリオが初めて気になっている女の子とセックスするシーンが入るのだが、そっちではエリオはまるでゲームやスポーツのように女の子とのありきたりな、絵に描いたような恋愛を楽しんでいる。そちらではサクサクとことが進む。手を繋ぐのも、秘密の部屋に女の子を連れ込んでキスやセックスをするのも、エリオの美貌にかかれば簡単なこと。だがことオリヴァーとなると途端に表情は硬くなり、自転車でのデートや、君のことを意識していると伝えているのかどうかもわからないような曖昧な表現での会話や、足のマッサージなどの性的なのかそうでないのかの際どいふれあいが描かれている。特に、初夜のお互いの足を重ね合わせてわずかなふれあいをするところなんて、やり方を知っているはずなのになんてウブで清らかなのだと思う。こちらの恋愛が本当の恋なのだということがじっくりと示されているシーンだ。

 

 

作中の時間は80sなので、10代もタバコを吸いまくるし、飲酒運転もする。あいまいな感情を表現するときにタバコというやつはどうしようもなく言葉の隙を埋めるなぁと思う。言いようもないエリオやオリヴァーの感情を手助けしたり、コミュニケーションを容易に取れるようにしてくれたりもする。(だからと言って喫煙を賛美するわけではないが。)

70年代から続くゲイリブなどのLGBT運動も続いていたけれど、いまだにゲイは犯罪者のような扱いを受けたり、精神障害のように扱われていたような時代。エリオ本人も少しゲイに対していい印象のない感じを受けた。

最後、彼ら二人の関係を決めるのも、その時代背景が関係している。自由の国と言っても、世間体や親の意向を聞いて自分の人生を決めなくてはいけない。なぜならオリヴァーは大人だからだ。大人はそうやって、自分の自制して、世間に合わせるべきなのだ。オリヴァーにとっては、そうするのが正しい行動だから。しかし、エリオは違う。エリオの両親はエリオが男性を好きになったことを否定するどころか理解を示し、失恋した息子を慰めたり、息子に苦しんでもいいんだよ、すぐに元気になんてならなくてもいいんだよ、いまの感情をきちんと大事にしなさい、と言ってあげている。私はこれが本当に大人になるということだと思う。大人になるということは、自分で自分を引き受けることができるようになるということ。感情が鈍磨していく中で、自分のことに誰も見向きしないようになったとしても、自分のことを大切に扱ってやることが、大人になる、成長するということなのだと思う。このシーンは本当に感動した。

 

 

この映画はBD絶対買う映画の一つです。これを機に80年代のゲイ運動に関わりあるモーリス見てみようかなと思う。

 

エンドレス・パーティ

 

友人の古本屋のアイデアで、本を作り出した。自分の街の会話を集めた本だ。それも20代限定の。今文字起こしをしながらインタヴューを重ねているところで、今日も夜録音の予定がある。

うまくいけば今日の場に三人ほどきてくれるので、残りあと二人を録音したら、あとは文字起こしをして、写真を何枚か撮影し、本としての体裁を立てようというところ。五月中にやりたいところなので、急ぎ足でやらなければいけない。こういうのは初速が大事だ。腐りきる前にやってしまいたいし、人に言って無理にでも怠惰な自分を動かすシステムを先んじて作ってしまえば、なんとかなるのでとっとと作りたい。

 

 

春と言葉の恩恵について

 

台湾から国際交流のためにうちの大学に向こうの主任教授と洋画の教授がゲストでやってきたので、その通訳兼ちょっとした作業係に一日大学に雇われた。久しぶりにしっかりと中国語をしゃべると大分劣化していてうんざりしたが、そこは台湾人の教授二人に褒めてもらってなんとか折れずに済んだ。台湾の学生と教授の関係は日本と違ってよりフランクで、上下関係もあまり感じない(これは中国語の中に日本語のような年上への敬語が存在していないことも関係がある。敬意表現はあるが、ですますのような語尾が存在していない。)

 

朝空港まで教授と迎えにいって(でも教授の運転なので、教授と二人で海とか山とか見ながら空港に行ったのでほぼドライブデートみたいなものだった)、夜ゲストと自学科の教授と共に食事会で食事をとったりしていたので、その時の通訳も適当に行っていた。中国語も喋れて美味しい食事もついてきてお金も貰えてなんていいバイトなんだとホクホクしていたら、食事会の後で尊敬する教授の方々から感謝されたり褒めてもらえたりして、こんなに幸福でいいのかと思った。最近留学でダラダラ遊んでただけだろうと怒られてばかりで、自身の留学経験に自分で影を落としていたが、決して無駄ではなかったのだと自分の中で自信が持てた。だってもしもダラダラしてただけなら、昨日みたいに自分の中国語スキルを人のために役立てることなんてできなかっただろう。努力の結果だよ、と教授に言われて泣きそうになるかと思った。

 

帰り道、月を見ながらふらふらと歩いて帰った。帰国してからの三ヶ月で一番楽しかったし、一番幸福なひと時だった。自分の能力で人を幸せにできる場所に自分はこれからも居たいと思う。