君の名前で僕を呼んでの感想

吹き替え版を鑑賞。字幕版も見たかったが終電の関係で諦めた・・・。

端的にいうとすごい良かったです。本当に・・・期待以上。

 

 

あらすじは、ティモシー・シャラメ演じるエリオは音楽が趣味な17歳。父親は大学教授で、毎年夏になると学生を住み込みで雇い、研究を手伝わせる。今年やってきたのがアーミー・ハマー演じるオリヴァー。エリオは最初はオリヴァーの偉そうな雰囲気(アメリカ人はどこでも堂々としてるからこういう印象を与えがち)に反感を抱くのだけれど、徐々に友情を超えた感情を抱き始める。2人とも男だけが好きなわけではなく、ガールフレンドもいる。2人は意識し合うがために、様々なすれ違いを起こしつつどこかギクシャクしていながらも、2人の時間を過ごし、ついに

 

 

 

 

この映画は3月ごろから注目していたもので、テーマ曲のスフィアン・スティーブンのmistery of loveを聞いたのがきっかけです。坂本龍一sportfyのラジオから飛んだのを覚えている。穏やかな曲調に心惹かれて、映画の公式サイトに飛んでそして絶対に見ようと決めていた。坂本龍一もこの映画の音楽を作っていて、それがまたエリオのドギマギした感情をうまく表現している音で、さすが世界の坂本と思った。この映画は音楽演出がうまい。映像の美しさもさることながら、音楽の挿入のタイミングと相乗効果で素晴らしいことになっている。先ほども書いたけれど、エリオの感情が音楽になって画面に響き渡っているよう。一見の価値ありと思う。

 

まず、はっとしたのはイタリアの風景の美しさだった。夏のイタリアの爽やかな、しかし少し湿気のある暑さ。ヨーロッパの夏は日本よりもとても過ごしやすく、皆外に出て陽に当たったり水浴びをして過ごす気持ちの良い季節だ。去年に訪れたヴェニスの、あの暑さを思い出した。

イタリアの田舎の水の美しさと、広々とした自然を自転車で走り回る気持ちよさ・・・。

 

そしてとにかく主演のティモシー・シャラメの美青年さよ!

それこそ、80年代の少女漫画の美少年のような。第二のビョルン・アンドレセンと言っても過言ではないように思う容姿。

17歳の危うい美しさをその美貌と演技力で表現しきっている。睫毛の揺れ方すらも意識しているのか?と思ってしまうほどに繊細で、感情豊かな演技。もちろんアーミー・ハマーのアメリカ人ハンサムの役柄も負けてはいない。ほんっとうに彼って80sのハンサムな感じがする。

 

作中、よく卵やアプリコットを食べたり飲んだりするシーンが出てきて、(というか大体お外で美味しそうなものを食べている)そこでのものの食べ方なんかも2人の性格や育ちを表現しているなぁと思う。あと、美少年と桃って古来からある組み合わせだけど、やっぱりあの形としたたる汁が原因だよね。というか全編夏のイタリアなのでほぼほぼ半裸とかで、ハンサムの輝く溌剌とした肢体に滴る水しぶき、そして降り注ぐ太陽の光・・・という。そのほかにも鼻血をだす美少年や嘔吐する美少年などなど、いやあ大変ごちそうになりました。

率直にいうと、王道を詰め込んだ感じ、花の84年組たちの少女漫画はこういうことを表現したかったのではないかと思う。

ただ、これをBLと表現したくはないなと思う。これは人を死ぬほど好きになるとはどういうことか、そしてそれを喪失するときの辛さや苦しさや痛みを、心を鈍麻させることなく受け止めていこうという希望のある恋の話なんだと思う。そこに性別の分け隔てなんて、一体どれほどの意味がある話だろうか?

映画は、恐れを知らない美しい少年の率直な輝きと、それを汚してはいけないと思う大人の逃げをまっすぐに映す。基本的に恋を自覚してからのエリオはまっすぐにオリヴァーに向かい合うのだけど、オリヴァーはそのまっすぐさに少し尻込みしてしまって、彼を汚す自分に罪の意識を持っていることがアーミー・ハマーの演技の端々に感じ取れた。二人の初夜の後、朝焼けに光るエリオを見たときのオリヴァーの顔は、エリオに拒絶されることと、エリオのような美しい少年を傷つけてしまった(であろう)自分の罪深さに押しつぶされかけていた表情だったように思う。であるから、セックスする前に何回も何回も、オリヴァーはエリオに確認をとる。本当にいいのか?と。大人であるオリヴァーの方が、不安で仕方がないのだ。別れのシーンなんて、完璧に大人のずるいところの結晶だった。最近自分も似たような思いを抱いたことがあったから、オリヴァーの気持ちがとても良くわかるし、昔の自分を思い出してエリオの感情に共感してしまい、劇場で泣いてしまうことが多々あった。

オリヴァーとエリオの初夜のシーンの前に、エリオが初めて気になっている女の子とセックスするシーンが入るのだが、そっちではエリオはまるでゲームやスポーツのように女の子とのありきたりな、絵に描いたような恋愛を楽しんでいる。そちらではサクサクとことが進む。手を繋ぐのも、秘密の部屋に女の子を連れ込んでキスやセックスをするのも、エリオの美貌にかかれば簡単なこと。だがことオリヴァーとなると途端に表情は硬くなり、自転車でのデートや、君のことを意識していると伝えているのかどうかもわからないような曖昧な表現での会話や、足のマッサージなどの性的なのかそうでないのかの際どいふれあいが描かれている。特に、初夜のお互いの足を重ね合わせてわずかなふれあいをするところなんて、やり方を知っているはずなのになんてウブで清らかなのだと思う。こちらの恋愛が本当の恋なのだということがじっくりと示されているシーンだ。

 

 

作中の時間は80sなので、10代もタバコを吸いまくるし、飲酒運転もする。あいまいな感情を表現するときにタバコというやつはどうしようもなく言葉の隙を埋めるなぁと思う。言いようもないエリオやオリヴァーの感情を手助けしたり、コミュニケーションを容易に取れるようにしてくれたりもする。(だからと言って喫煙を賛美するわけではないが。)

70年代から続くゲイリブなどのLGBT運動も続いていたけれど、いまだにゲイは犯罪者のような扱いを受けたり、精神障害のように扱われていたような時代。エリオ本人も少しゲイに対していい印象のない感じを受けた。

最後、彼ら二人の関係を決めるのも、その時代背景が関係している。自由の国と言っても、世間体や親の意向を聞いて自分の人生を決めなくてはいけない。なぜならオリヴァーは大人だからだ。大人はそうやって、自分の自制して、世間に合わせるべきなのだ。オリヴァーにとっては、そうするのが正しい行動だから。しかし、エリオは違う。エリオの両親はエリオが男性を好きになったことを否定するどころか理解を示し、失恋した息子を慰めたり、息子に苦しんでもいいんだよ、すぐに元気になんてならなくてもいいんだよ、いまの感情をきちんと大事にしなさい、と言ってあげている。私はこれが本当に大人になるということだと思う。大人になるということは、自分で自分を引き受けることができるようになるということ。感情が鈍磨していく中で、自分のことに誰も見向きしないようになったとしても、自分のことを大切に扱ってやることが、大人になる、成長するということなのだと思う。このシーンは本当に感動した。

 

 

この映画はBD絶対買う映画の一つです。これを機に80年代のゲイ運動に関わりあるモーリス見てみようかなと思う。

 

エンドレス・パーティ

 

友人の古本屋のアイデアで、本を作り出した。自分の街の会話を集めた本だ。それも20代限定の。今文字起こしをしながらインタヴューを重ねているところで、今日も夜録音の予定がある。

うまくいけば今日の場に三人ほどきてくれるので、残りあと二人を録音したら、あとは文字起こしをして、写真を何枚か撮影し、本としての体裁を立てようというところ。五月中にやりたいところなので、急ぎ足でやらなければいけない。こういうのは初速が大事だ。腐りきる前にやってしまいたいし、人に言って無理にでも怠惰な自分を動かすシステムを先んじて作ってしまえば、なんとかなるのでとっとと作りたい。

 

 

春と言葉の恩恵について

 

台湾から国際交流のためにうちの大学に向こうの主任教授と洋画の教授がゲストでやってきたので、その通訳兼ちょっとした作業係に一日大学に雇われた。久しぶりにしっかりと中国語をしゃべると大分劣化していてうんざりしたが、そこは台湾人の教授二人に褒めてもらってなんとか折れずに済んだ。台湾の学生と教授の関係は日本と違ってよりフランクで、上下関係もあまり感じない(これは中国語の中に日本語のような年上への敬語が存在していないことも関係がある。敬意表現はあるが、ですますのような語尾が存在していない。)

 

朝空港まで教授と迎えにいって(でも教授の運転なので、教授と二人で海とか山とか見ながら空港に行ったのでほぼドライブデートみたいなものだった)、夜ゲストと自学科の教授と共に食事会で食事をとったりしていたので、その時の通訳も適当に行っていた。中国語も喋れて美味しい食事もついてきてお金も貰えてなんていいバイトなんだとホクホクしていたら、食事会の後で尊敬する教授の方々から感謝されたり褒めてもらえたりして、こんなに幸福でいいのかと思った。最近留学でダラダラ遊んでただけだろうと怒られてばかりで、自身の留学経験に自分で影を落としていたが、決して無駄ではなかったのだと自分の中で自信が持てた。だってもしもダラダラしてただけなら、昨日みたいに自分の中国語スキルを人のために役立てることなんてできなかっただろう。努力の結果だよ、と教授に言われて泣きそうになるかと思った。

 

帰り道、月を見ながらふらふらと歩いて帰った。帰国してからの三ヶ月で一番楽しかったし、一番幸福なひと時だった。自分の能力で人を幸せにできる場所に自分はこれからも居たいと思う。

赤リンマッチ

 

この間までやめていたのに、最近またタバコを吸ってしまっている。精神が不安定になるとニコチンに逃げるスイッチができてしまい、どうにかしてねじ曲げたい。このままではいけないと思う。

ただ、いけないなと思う反面、爺さんの肩身のキセルの掃除を行ったりしてしまい、羅宇が腐っていたので新しく羅宇になりそうな竹を山に取りに行こうかなとか、キセル用の宝船を買ってしまったり、赤リンマッチを持ち歩いたりしてしまったりして、考えていることとやっていることの矛盾が激しい。タイムセールだからとVAPEの値段をアマゾンで見たりしてしまって、本当にダメだと思う。

 

赤リンマッチで火をつけるのは、タバコに火を点ける瞬間にポッとそこだけ明るくなるのを見るのが好きだからだ。あと、なぜかライターよりもタバコがうまい気がするから。完全にプラシーボ効果のような気もするが、嗜好品は大抵そういうものだろう。ゴミも出るが、そういうところも愛おしい。

私は基本食事は早食いで、さらにこういう状況だと手抜きな食事ばかりしてしまうので、ゆっくりするということがなかなかできない。シャグを巻いたり、友達とタバコを吸いながら話すのは、心からリラックスできるので、今のような状況下ではやはりニコチンは必要なんだろうなと思う。またいつか吸わなくなる時が来るだろう。

 

 

書類の締め切りと作品の締め切りがまだ三つもあるのと、留学の成績証明書が届かなかったことで大学と台湾の大学のやりとりをなぜか私が行い、そして家庭内の様々なことが災いして精神の中で恐ろしいドタバタを繰り広げ、最近は一体自分が何ができて何ができていないのかわからないパニックを起こし、貧弱な思考回路がパンク状態なことがとても多い。どんどんミスが多くなり、思考の精度も格段に落ちているために、ぼーっとしたり、認知が歪んでいるのでおかしな回答をしたりして、丁寧な文章を構築することができなくなっている。側から見ると不注意にしか見えないため、注意を受け、そしてそのせいでまた自己嫌悪を繰り返し、自分の心を疲弊させていっている。

台湾では語学が不出来であること以外で一切自己嫌悪をしたことがなかった。それはそんな暇がないくらい楽しかったこともあるかもしれないが、基本的にみんなそんなにドタバタしていなかったからだと思う。日本で自己嫌悪せず、行政の書類や印鑑文化と戦うのは正気の沙汰ではないなと思う。

配られたカード

 

朝起きて家族全体のラインを見ると長女から長文で予定を聞くだけなのにこんなにたくさんの人を巻き込んでギャーギャー言わないとわからない奴が戻って来たって足手まといになるだけだからもう知らん、手間がかかるのはばーちゃんで十分だ、好き勝手に生きろ、大学に行かせてやれるように手助けするんじゃなかった、と言われ(手助け案としては実家に基本軟禁で1週間に一回大学への通学を許すと言う内容の提案で、銀行口座の閉鎖やクレジットカードの停止、パスポートの没収などを言い出したのは姉なのだが)、時間帯を見ると8時半で、家族一緒に食事を取った後にブチ切れた家族の代表として長女にその内容を送らせたのか、はたまた長女が一人で送ったのか、定かではないが、まだ精神がまともだと思われる時間帯に送られて来ていたので、本気レベルとしては最高度なんだろうなと思い、いっときの怒りに身を任せてこういう形になっているのかもしれないが、こう言うことを書いてそのほかの家族誰も以降の返事がないので、とりあえず学費の減額申請書を自分で準備しようとまず思った。不思議と精神的なショックは大きくなく(もちろん、ラインであっても長文であればある種の威圧感というか、怒りの感じる文章みたいなものは伝わってくるから、怖いなあと思うのだが)冷静に受け止めることができた。むしろ遅かれ早かれこうなっていたのではないかなあと思う。最悪の形でこうなってしまったので、向こうは一生私を憎み続けるだろうし、今住んでいるアパートに突然やって来て家財を全部持って行かれたり、殺しにくるエネルギーが向こうにもしもあれば殺しにくるかもしれないなと思う。家庭というのは恐ろしい。

とりあえず今日は大学事務に行って用意する書類の種類になかに不明なものがあったのでそれを聞いて来なくてはいけないのと、学費の書類の仕事などの作業をするつもり。

折れないようにしたほうがいい

今日は雨だったので精神と体調が無事に終わりあそばし、しかし作品を作らなければいけないので体を引きずりながら大学に向かった。大学に行くことが一種の精神安定装置になっている。ぼーっと雨の中を歩いていたらお世話になった非常勤の先生に遭遇し、非常勤講師室で茶をしばき、身の上話をした。いやーやばいねー棒さんと言われ続け、先生に言われたアドバイスは悪者になれ、戦略を練ってヘラヘラしながら戦え、ヤケを起こして折れるな、ストレスの原因を君が取り除くのは無理だから、それはもう諦めろ、家族からの精神的な攻撃で、私がへし折れてこれからの人生棒に(文字通り)振らないように、一年間耐え忍ぶんだ、とりあえず大学は卒業した方が絶対にいい、血が繋がってると言っても他人で、血が繋がってるからこそ他人よりもひどいことができるから、お金の問題が終わったら極力距離をとって、関わらないように生きて言った方がいい、自分が死にたくないのなら、分かり合えると言う安いヒューマニズムに落ち込むことはやめて、断ち切る覚悟を決めろと言うことだった、正直その通りで、特に最後の覚悟を決めろはだいぶ効いた。私はジョジョの覚悟論*1を信じているので、覚悟を決めることがこれからの人生を左右するし、敵との戦い方もそれによってより決断しやすいものとなる。要は自分が意気地なしでダラダラとしていた怠惰グセが問題なのだ。問題を先延ばしにしてもろくなことにはならない。

 

こうして、先生との会話でだいぶ精神が回復した。

ちなみにうちの非常勤講師室のお茶は普通くらいのグレード。

 

当事者になると、異常な権力構造やドメスティックな中で繰り広げられる様々な行いに麻痺してしまい、自分が糾弾されるのが当たり前の人間であると思い込み、まったく論理的ではない相手の要求も受け取らなければいけないと思い、精神的な負債を抱えることになる。自分にできることは、恐怖と怠惰、そして適当にヤケを起こそうとさせてくるアドバイスにすぐに染まらないことだと悟った。自分にはそう言う風にヤケを起こして後の自分の中の計画を狂わせるよりも、今耐え忍んだ方がいいと思う程度の理性はまだ残っている。相手方の要求にはいくつか真っ当なものもあるのだ。ただ、楽な方に流れると終わるので、ここで耐え切りたい。ちなみに家族からラインが来ていると通知が見えるが、今日の夜に見るとどうしようもなくなること間違いなしなので、朝に見てから考えることにする。現在の私にとって彼女たちからの連絡を見ることは、極度のストレスを生じさせる行為であるために、とてもしんどい気持ちになる。ただ、行為に覚悟を持って待ち受けるしかなさそうだ。

 

 

*1 「暗闇に道を開くのは、
『覚悟』のある者だけだ…………
『覚悟』とは…………犠牲の心ではないッ! 
『覚悟』とは‼︎暗闇の荒野に‼︎自分の進むべき道を切り開くことだ ッ‼︎」

ジョジョ第五部 黄金の風より ジョルノ・ジョバァーナのセリフ

 

「5年後の未来何が起こるのか?人類全員がそれを知っている

『加速した時』の旅で自分がいつ事故にあいいつ病気になりいつ寿命が尽きるのか?すでに体験してここに来た

頭脳や肉体ではなく精神がそれを体験して覚えて知っているのだ!

そしてそれこそ『幸福』であるッ

独りではなく全員が未来を「覚悟」できるからだッ!

「覚悟した者」は「幸福」であるッ!」

ジョジョ第六部 ストーンオーシャンより プッチ神父のセリフ

 

友達のフランス人とファンキーラブリーガールと夜

 

今日も適当に大学に向かって、今度大阪である展示の作品を作っていたら、家族への予定の報告をサボってたツケでマジギレの、そして更に強制送還させる旨のラインが来ていて、見た瞬間全部無理で全てが嫌になってゼミの後輩からタバコをもらって喫煙所にタバコを吸いに行った。死ねばいいのにな、と思いながらぼーっとタバコをふかして、戻ると最近仲のいいファンキーラブリー後輩に遭遇して、タバコ吸いに行きましょうと言われてまた喫煙所に戻ってまた後輩からタバコを貰ってタバコを吸った。聞くと今日、最近街に旅行でやって来て、そのまま2週間ほど滞在することになったフランス人が彼女の英語サークルの集まりにやってくるらしい。自分も顔見知りだったので、ホイホイと参加することになった。

 

5時ごろに到着する彼を待って、三人で一緒にタバコを吸って、英語サークルの集まりに向かった。

 

サークル活動を8時に終えて、フランス人とファンキーラブリーと一緒に駅前の珈琲屋に向かったら、店主に今日は疲れてるから3階のボトルカフェ&バーに行ってくれと言われ、そのまま3階に向かってだらだらと話ながらビールを飲んでいた。

 

フランス人は街で最初にリノベーションを始めた人のところで働いており、同時に彼の家に滞在しているのだが、彼は街の写真を100枚スマホで撮って、文章とともにインスタグラムにまとめるプロジェクトをしているという。見たところ非常に考現学とかと似た視点で、君は街を観察している観察者なんだね、と言うとあ!そう!そうなんだよね〜と、まさにその言葉を探していたんだと言う感じであった。美術を勉強していることを向こうは知っているので、今度ドローイングを見せてくれと言われた。

 

ファンキーガールは幸せそうにゆらゆらと揺れながらホットのワンカップを飲んでいて、我々はジェンダーや日本の文化と西洋文化との差異、映画、日本語の表現の違いの面白さ(I love talk with you の意味のloveは日本語には無く、とにかく礼儀を重視する等)、なぜ彼が尾道にやって来たのかを話し合った。彼が言うには、社会の中の振る舞いには本当に大きな差異があり、例えばフランスなら頬にキスをしあうことは挨拶であったり、女性が男性にタバコの火をつけることはこの後性的な接触をしようと言う暗黙のサインだったりすること(なので日本のスナックや性産業が本当に女性に権利がないみたいで嫌だと言っていた、し、こういう意識が今後日本にも根付くのだろうなあと思う)、お酒を乾杯するときに、ヨーロッパや日本ではお互いにこの場を楽しもうと言う意識だが、トルコではテーブルに置いて、ここにいない家族や来れなかった人のことを思いましょうと言う意味だと言うことを教えて貰った。中でもフランス式ハグの実演には結構笑ってしまった。ただ、やっぱり私も他人とハグするときはまだ少しドギマギしてしまう。日本人だなあとこう言うとき意識する。

私の英語はまだまだ拙いために、あまりきちんと彼の意味を汲み取れなかったり、I will earn money をI make my money とか言ってしまって、きちんと使いこなせていないけど、そう言うコミュニケーションの中で生まれてしまう隙間みたいなところは、アルコールとタバコ、ファンキーガールの可愛さが補ってくれたように思う。自分の英語能力は、頭の出来もあるんだろうけど、瞬時に相手に返答をすることができないレベルだし、多分きちんと理解するための聴く力が弱いために、相手に不信感を抱かせてしまっている気がするので、聴く力をきちんとつけることが重要だと思う。彼はもう今日でタバコをやめるみたいので、次回どうなるかだが。健康な期間と不健康な期間で区切っているらしい。

気づけば、最終的に床ラブなファンキーに促されるままに床で座って話をしていた。今度は昼に山に登って瞑想する約束をして、今宵は御開きとなった。

 

自分だけ二人と逆方向に帰るので、店の前でバイバイと言って、肩を組みながら帰る二人の背中をちらりとみた。ファンキーガールのキラキラしたピアスが商店街の蛍光灯を反射して、灯の落ちた中を歩く二人の影はなかなかにフォトジェニックだった。

帰りながら自分たちの今の生活が古来より続くものではなく、今の自分たちの食生活も自分たちに都合のいいように作り変えられたただの仕組みと欲望の発露でしか無いことを考えていた。